ペニンシュラ型

~私とあなたの不可避な壁~

喰らえ この愛 これぞ愛 『京騒戯画』十話

ひっじょーーーに綺麗に終わったと思います。
ちょいちょい深読みできる部分もあるかと思いますが、サブタイ通り『今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画』になったと思います。まぁだからこそ、個人的には気になることがあったりするのですが。


最終回名物特殊アバンタイトルでありますが、第1話のアバンと対になっているところがとても好きです。1話では稲荷による語りかけ、鏡の都あるいはこのお話自体がどういうものなのかということが提示されて、これから話が広がっていくことを暗示するがごとくカメラが空に広がっていく。今考えてみるとカメラが宇宙に向かっていくのは平行宇宙にまで話が広がっていくのを示唆していたのでしょうか。
対して、今回の冒頭はその広がった世界から家族あるいはその愛に焦点があるというのを示さんばかりに世界から下って来て稲荷とコトの語らいにカメラが移る。秘密の都の話をしていたのが稲荷とコトの秘密になっているのも面白い。そもそも鏡都自体が彼らの秘密でもあるわけですからね。


というわけでそもそもこのお話自体が稲荷がアイデンティティを見つけるまでの物語と言っても良いのでしょうが、彼が語る自身の存在意義の謎は薬師丸の抱える自分は何なのか、という問題と重なるわけですね。彼らは特殊すぎるケースですけど、この問題自身は割と普遍的なものですよね。彼も特殊なケースですが、宮司のボヤキも同様の意味を持っていてそれに対する回答というのもおんなじなんですね、意外とどこにも転がっている。
自身の存在意義とは何か、いるだけでよい、愛で意味が付いてくるしそれがまた愛になるっていうのは、すっごい普遍的ででっかいお話だからこそ刺さる人には刺さる物語になったのだと思います。
それだけじゃなくて家族の物語として子供たちの成長というのが見られた最終回だったかなぁ、と思います。古都は薬師丸が数珠を使うにはまだ、と思っていたけれど逡巡しつつもそこはさらっと乗り越えますし、稲荷のコトと薬師丸が世界を作り変えることは信じているけれど、自分の存在を残すという点では想像を超えていってる。知らぬところで子供は育つわけですね、日頃の何気ない愛で。「お前は分かっているのか」という稲荷へのコトの問いかけに対する彼女の答え、拳はコトの幼少時に稲荷自身が教え、褒めてきたものでもあります。
そういう意味で普段のEDの締めの画面の何気ないコトと明恵たちの生活の一場面というのは、それをチラ見せしようとしていたのでしょうか。


コトなんかは主人公、ヒーローだけあってそこの創造を超えていくところがとても強くて、あれだけ古都が稲荷を愛し、理解し、だからこそ理解できず越えられなかった垣根を(作画的にも、意味的にお)いとも簡単に越えていく。
娘のよびかけに父親ですもの、笑顔で答えたくなるのはそりゃ当然です。
予習編0話で稲荷が切っていたのは朝顔でしたが、今回ずっと画面に出てきた朝顔の垣根をぶっ壊したのはコトでした。でも垣根はぶっ壊しても朝顔は咲いています。朝顔花言葉は愛だそうです。


世界は「騒がしく戯れ生き」られる様に、そううまくいくような形をしている。また稲荷自身、またあの家族にとってそう出来るような家がやっとできた、むしろこれからそのように生きていけるようになった、そんな最終回だったと思います。
一方、途中のコトと明恵がワープする時の「なんだこりゃ」「ワケわかんねぇ」空間は、おそらく方々で言われてると思いますがすっごいメタ的な意味も含んでいると思います。明恵への語りかけは何度も終わり、コンティニューし、つづけられてきたこの『京騒戯画』という作品自体への意味も含まれているのだと思います。
ここで仕切り直しできると言って画面を砕いちゃうっていうのは、後半戦のOPで不吉に思えていた三兄弟の回想シーンのひび割れのネガティブな印象がひっくり返されるすっごい大胆なネタも含んでるんじゃないでしょうか。
評価は分かれるところだと思いますが、作りだした物語に対して、一緒にいても良い、ずっと一緒にいてくれっていうのは意外とすっごく難しくて覚悟のいることだと思うのですが、それをやっちゃうところもすごく良かったです。今後の展開としてどうなるかというのは非常に気になる所でもありますし。


最終話だけでなく『京騒戯画』全体に対する総評になってしまうのですが、今回のTVシリーズを通してやったのは「今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画」がこれからはじまるよ、できるようにするよ、という部分だったと思います。
ただ、最初の予習編0話の際のパンフレットや各種インタビューで松本監督がおっしゃっていた『京騒戯画』の意味、「鏡(の都)を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画」から非常に細かいところでずれてしまった様な気がするのが個人的にはちょっと物足りない様な残念な様な気もするのも事実です。
鏡都での家族の生活を描く、というよりも騒がしく戯れられていられるのはなぜか、というところの説明に力点を置いたというのは分かります、そういう説明はあんまり必要でないとする自分の様な意見の人間は少ないというのも分かります、でもそこも自分はもう少し、見たかった。以前のエントリで書いていたように自分は「おまつり」感を今作に期待していた部分も大きかったので、0話で見られたようなどんちゃん騒ぎはどうしても、説明をやっていくと省かざるを得ない部分なので。わがままですが。


それでも、それ以上にこの作品には良いところが多かった。
細かい演出や画面全体の雰囲気、役者の演技、何よりこうやってひっさびさに自分に毎週何か珍文を書かせるだけのエネルギーがありました。
何度も引き合いに出しますが、松本監督の前作『花の都でファッションショー…ですか!?』でも描かれた愛や家族、アイデンティティについてより大きな尺で描いてくれました。「Au revoir」な作品になってほしいと『京騒戯画』が始まったころに書きましたが、その通り、次にまた会うのが楽しみになる作品が出来上がったと思います。
少なくとも、自分にとって何かあるたびに見返そうと思える作品です、時々ね。


京騒戯画 伍巻(VOL.5)<完> [Blu-ray]
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) (2014-05-09)
売り上げランキング: 1,585