ペニンシュラ型

~私とあなたの不可避な壁~

全てを破壊し全てをつなぐ様に説得(恐喝)します 『京騒戯画』8話

サブタイの割に意外とすんなりまとまった第八話『あっちとこっちでもめる話』でした。
所謂説明回ですね。にしてはあっさり、というか直接全部が明かされるという訳ではなく、世界崩壊という問題に関してだけクローズアップされていた感じなのもこの作品らしいですね。
アバンタイトルのナレーション「人と神の境が曖昧だったころ」がかなりズバッと本編に絡んでまいりました。
今まで妖怪は出てきていましたけれど、人と妖怪の境とは言ってなかったんですねー、気付かなかった。そりゃ絵とはいえ(実際は違ったのですが)世界を新しく作ることが出来たらそれはもう神ですもんね。それほどの力を持つのであれば、介入者ではなく、観察者としての立場を強いられるのはある種当然と言えるのかもしれません。


前回少し書きましたが、やはり稲荷はそのような立場を強いられ「慣れ」てしまった部分があるんでしょうね。
とはいえ石田彰キャラありがちなもったいぶった感じで何も説明しない性格なのはそれが原因というよりも彼のもとからの人となりの様ですが。この辺りは。古都とのちょっとコメディタッチのやり取りでツッコミが入っていたのが面白かったですが。
この作品は同じ背景でキャラクターの動きや位置関係で画面をつなげることをよくやりますが、今回は特に文字通り所在なさげな稲荷の様子がよく出ていたと思います。
稲荷と古都のやりとりといえば、今回印象的なのは彼をビンタしようとする古都の手を止めて、自分で狐面を外して、改めて自分でほほを叩かせるシーンですね。
勢いでいったら当然そのまま古都が叩いてた方が強いのでしょうが笑、直後の自分で世界崩壊の責任をとることを決意するコトのセルフビンタ?喝入れ?でやはり親子であるというのがよく分かりますし、その後自分の手で狐面を壊す場面もあり、役目としての「狐面」との決別や自分自身のケジメをつけるという意図が強く伝わります。
そういう意味ではニコニコの配信でしか見れてないので過去の話数をすぐ確認できないのが悔しいのですが、今までの稲荷の会話シーンはどうだったのでしょうか。すべてではないかもしれませんが、基本的に面を付けているときは神社での役割がある時、素顔の時は稲荷あるいは明恵としての立場を出していたことが多かった様な気がします。
そもそもあの狐面は一話で宮司がつけていたものを今回台詞であったように彼が譲り受けたものの様ですね。「反省から学ばないな」との冒頭の宮司の台詞もありましたが、何か似たようなことが過去にあったのかもしれません。


今回もう一つ面白かったのが、キャラクターの記憶の欠落ですね。登場人物のほとんどが世界が崩壊しだしてもそれまで通りの人格を持っていたのに対して、八瀬や(台詞から判断して)神社の娘さんは記憶を失っている。
その違いは何か。所持品を失っているという意味ではゲーム機?リモコン?を失っているショーコもそうですが彼女に変化はないようです。そういえば伏見の姿が見えませんが元は神社所属の彼は何をしているやら。
これはモノに対する依存度、関連付けがイコール記憶になっているんじゃないかなーと私は考えました。4話で示されましたが、八瀬は記憶を紐解く手がかりとして様々な思い出の品を保存していたわけですが、これは逆にいうとそれぞれの思い出の品に記憶が残っているという風にもとれます。だからその品々がなくなっていってしまって記憶が失われてしまった。
神社の女の子の場合は、公式サイトで見れば分かるように彼女はあくまで「社の少女」という社にとっての舞台装置、オマケのようなもので、おそらく人を作ろうとして作られた存在でないような感じがします。だから社が世界とともに崩壊しだしたことをきっかけにアイデンティティが失われ、記憶が消えたのではないでしょうか。


前回書いた家族としての再生が行われる前段階としての家族どころか世界の破壊と、コトのアイデンティティのゆらぎが今回描かれたわけですが、そこからコトらしく復活して力技で宮司に迫るのは彼女らしいところですね。
ここで明恵が自分の本当の家族のことを持ち出したのはちょっと意外でした。そういう意味で言うともう一段階、明恵がコトたちの家族として加わるためにはもう一アクション必要な気がしますがこれからどうなるか。


そんなこんなで最終回が見えてまいりました。ねこの人間体の姿も出てきて、PVに登場していたけど本編で出てないのは神官みたいな二人だけになりましたが、この二人が登場することはあるのかどうか。
しかしやっぱり東映作品ですね。