ペニンシュラ型

~私とあなたの不可避な壁~

ポケモンとかデジモンとか キャラとモンスターとでいろいろ


首藤剛志さんの脚本作りに関するコラム。これのミュウツーの逆襲に関する記述(166回から)がそろそろ終わったから、一回載っけとく。凄く考えられてポケモンアニメが作られていたんだな、と分かる。


これ読んでてちょっと思ったこと書く。長いけどオチはない。
といっても↑の内容にはそんなに関係がないけど。
とりあえず、177回の内容からいくつか引用。

つまりプレーヤーのリスクが少ない代理戦争ゲームなのである。
けっして、嫌味で言っているのではないが、自分の思いどおりになる部下を上手に使って、自分のキャリアを上げていく、ある意味、大人にとっても理想的な処世術につながるゲームでもある気がする。

http://www.style.fm/as/05_column/shudo177.shtml

ゲームにおけるポケモンは、色々な特徴があり、愛着度はプレーヤーにとってそれぞれあるにせよ、基本はバトルゲームの駒である。
その駒が、プレーヤーの意思を無視して、「自分とは何か」などと考え出しては困るのだ。
駒はルールにのっとってプレーヤーの思いどおりに動いてくれなくては困る。
ゲームの駒に自己存在を意識されて勝手に動かれては、ゲームにならない。

いつもは、自分の手持ちのポケモンに戦いの指示は出すものの、表現は悪いが、ポケモンの戦いを高みの見物している連中だ。


そのとおり。サトシもレッドもプレイヤーも実際には戦わない。バトルに関してリスクを負っていない。
実際、ゲームオーバーになっても小遣いをカツアゲ?されるくらいで主人公は無傷だし。
たまに言われたりする、本当にロケット団がいたならば、ポケモンバトルなんかしないでトレーナーをとんでもないことにしてしまうだろう、みたいな冗談の原因がここにある。
ポケットモンスターというゲームが出てくる以前に、自分は直接戦うことがまったくないRPGってあったんだろうか。そのあたりの知識が乏しいからよく分からない。


なんていうか気付かないところでキャラクターとポケモンたちの間で使役するもの、されるもの、の関係が成立してしまっている。二つの間には壁が存在する。
これが一番顕著な形で出ているのは、ポケモンの名前だと思う。
ポケモンのアニメの世界ではピカチュウはそのままピカチュウと呼ぶし、ポッチャマならそのままポッチャマと種族名で呼ぶ。
私たちは「ピカチュウ!!十万ボルトだ!!」という感じで「柴犬、お手だ!!」とか「アメリカンショートヘアー、ごはんよ〜。」などとはいわない。
でもポケモンの世界ではそういう区別はされていない。たまに同じ種族のポケモンが同時に出ることもあるけど、体の柄がちょっと違ったり、なにかアクセサリで見分けたりするくらいで、そのポケモン一匹の名前はついていないことが多いと思う。
そりゃあ子供向けの番組だからキャラクターの名前を覚えやすく、また子供たちが混乱しないようにするにはしょうがないのかもしれないのだけど、いくらなんでも徹底しすぎている気がする。


なんとなく、これは、この世界の中ではポケモンに道具としての面が強いからじゃないかなぁ、とも思う。
普通、鉛筆とかはさみなどといった日頃使う道具一つ一つに名前をつける人はいないように、基本的にポケモンバトルで回っている世界においては、ポケモンに個としての性質(性格)は求められていないのじゃないだろうか。*1
種族的な性質とは別の個をしっかり持っているポケモンというのはニャースくらいじゃないだろうか。人語を喋れるポケモンは基本的に彼しかいないし、喋れるという時点でかなり人間のキャラクターの立場と近いというのもあるんだろうけど。そう考えるとムサシ、コジロウもあに作品の中で唯一、ポケモンバトルのダメージを直接その身に受ける特殊な立ち位置ともいえるかもしれないな。




これと比べて考えると面白いのが、一連のデジモンアニメシリーズ初期。


モンスターと人間という関係性もそうだし、似てるところが多い。
やっぱり一番はデジモンの名前が種族名であることかしら。
だからバトル中に進化するとパートナーデジモンの名前の呼び方がコロコロ変わる。それでお前らお互いをちゃんと認識できとるんかと思ったり。オメガモンとかすごい混乱しそう。
ポケモンも進化すると名前と呼称が変わるけど、デジモンみたいに進化前に戻ったりしないからそこまで気にならない。


相違点は、デジモンの場合は、人間がデジモンワールドからしたら異端者だからどちらかというと人間がデジモンの戦いに巻き込まれる感じ(ポケモンはむしろ積極的にポケモンを捕まえる=戦いに巻き込もうとしている)っていうのが前提にあると思う。
他にもポケモンの力は(ゲームでの設定はともかくとして)ギリギリ人間が自力で対応できそうな描写にとどまっている割に、デジモンの力は人がどうにもできない、だとかパートナーの負け≒死を意味したりする、だとか色々違いがあるね。


ただ、人間のキャラクターがモンスターたちの戦いには基本的に関与出来ないのはポケモンと同じ。
それで、さっき書いたみたいに、デジモンの力に主人公たちは敵わないから戦いの時には主人公たちはそれを見てるだけの状態になってしまう。
ポケモンの場合はサトシがポケモンを攻撃から庇ったりだとか、使う技の指示があったりして幾らか戦いに参加してる雰囲気は出せるんだけど、デジモンで人間キャラがやることといったら進化の時に精神的なものをふしぎアイテムに供給する*2くらいで。


これは制作スタッフさんたちも意識してらしたみたいで、このあたりの人間キャラとデジモンたちの関係の各シリーズでの扱いの変遷を見ていくと面白い。


元祖デジモンアニメ、いわゆる無印デジモンアドベンチャーだと、選ばれし子供たちの方がデジモンからしたら進化のための道具みたいな役割を負っている感じがする。
続編の02では、続編ということもあって基本的に無印での二者の関係と変わらないんだけど、デジモンカイザーの賢ちゃんが登場する。彼(あと及川)の登場で今までデジモンにやられるしかなかった人間がデジモンより優位に立てることが明示される。
更にクトゥルフ回とも言われる『ダゴモンの呼び声』でデジモンと人間が結ばれる可能性すら示唆される。


次に三作目のデジモンテイマーズ
通常のバトルにおいてカードを用いたデジモンへの支援を主人公たちがおこなえるようになった。更に、究極体になるにはパートナーとデジモンが融合する必要があるなどの変更点がでた。
四作目のデジモンフロンティアではその方向をさらに発展させて、主人公たちがデジモンに進化するようになる。


しばらくブランクがあった後の五作目デジモンセイバーズになると、バイオデジモンという人間がデジモンに進化(というか変身?)する設定も残しつつも、なんと主人公の大が究極体ですら素手で殴るわ、ケンカするわという、どこで流派東方不敗を習った?と訊きたくなる設定になった。
ここにおいて、遂に人間とデジモンが戦いにおいて同格の立場になったともいえる。




流石に、サトシがポケモンになる展開はないだろうけど、劇場版とかで人間の意志が宿ったポケモンだとかは出てきてるので、ある程度デジモンと同じような成分は入っているっていうのは言えるだろうなぁ。
ポケダンシリーズだとそのものズバリ、人間の主人公がポケモンに姿を変えるっていう設定になってしまっているし。


ここまで書いてきてやっぱりデジモンポケモンの一番大きな違いは言葉が通じるか通じないかっていうところにあって、通じるからこそ、デジモンと主人公たちの関係を変えていかなくてはならなかったんだと思う。
となると、ポケモンにおいて一番キーとなるのはやはり、ニャースだろうなと思う。
人間になろうとして、なれなかったポケモン。またそのために、ただのポケモンニャース)としても生きられなくなったポケモン


要するにこの長文エントリは私がニャースが一番好きなポケモンニャースですということです。
 

ポケットモンスター モンスターコレクション MC -062 ニャース(NEW)

ポケットモンスター モンスターコレクション MC -062 ニャース(NEW)

無印の小説はアニメで描かれてないバックグラウンドの説明がかなり多かった気がする。ホメオスタシスとか。
 

*1:そう考えるとニックネームもついてるし、ポケスペはすごいな。

*2:といっても初回進化くらいですけどね