ペニンシュラ型

~私とあなたの不可避な壁~

『新訳亡念のザムド』読了 ひとつの出会いがきっとある


新訳 亡念のザムド〈上〉

新訳 亡念のザムド〈上〉


新訳 亡念のザムド〈下〉

新訳 亡念のザムド〈下〉


というわけで小説版『亡念のザムド』さっそく読み切りました。


新訳というタイトルになっているので、アニメと別設定のお話になってるかも、と読む前は考えていましたが、基本的にストーリーは変わらず小説ならではの記述で画面から読み取りにくい要素を詳しく説明している感じですかね。
「鏡の世界」というキーワードが小説版にはありますが、まさにアニメ版の内容を鏡に映して、文字媒体として翻訳したらこうなるのかな、という感じがします。
宮地昌幸監督本人が筆をとった作品ということもあり、多少文章にクセはあるかもしれませんが、ここまできっちり全エピソードを詳細に書き切っているというのは素晴らしいの一言。少なくともたいていのアニメ作品のノベライズものと比較しても情報量、作品の質ともに充実しすぎているといっても良いでしょう。
もちろん新しいエピソードも追加されており、たとえば17話のタイトルにもなっていた「子羊とオボロ月」が作中世界でどういう意味を持っていたかということなども明かされています。
解釈が難しかった部分への補完もありますし、アニメ本編を視聴された方には是非読んでいただきたい。
そういうのでなくてもたとえばで言うと、フルイチがやっぱりきもちわるいよ!!すばらしいよ!!
ぜひぜひ。以下からは感想。




読了してまず、この小説、ひいては亡念のザムドという作品自体というのは、茨木のり子の『魂』の一節にもあるような、「メタフィジックな放浪」への切符になっているような感想を持ちました。
ザムドという作品に限らず、様々な世界に描かれている感情というのは現実世界でのそれと変わりはしないんですよね。そういう意味ではその切符、鏡の中の別世界を覗きこむ手段というのはザムドに限られるわけではないのですが、私たちが生きるこの世界とそれらの世界の類似性について自覚的に考えさせるようなもの、というのは意外に少ないように思います。
言ってしまえば、作中でアキユキ、ナキアミ、ハル達が行ったことというのは、形は違ってしまうかもしれないけれど私たちにも行えることなんですね。
アキユキ達は何度か作中で“生まれ直し”ます。その結果が良いものか悪いものかは分かりませんが、その都度その都度迷って、考えて、生きていく姿が描かれています。


文章として改めて描かれることで、茨木のり子中上健次といった作品群がどうしてこの作品の発想の原点となったのか、よりはっきりと分かった気がします。
正直、公式ガイドブックに掲載されていた「アキユキは実は生まれていなかった」かもしれないといった内容に関して私は上手く理解が出来ていなかったのですが、仮に生まれていなかったとしても、“秋幸”はいなくなるわけではないんですよね。
その代わりそのことをずっと考え続けて忘れないようにしないといけない、一種の狂気*1なのかもしれない。でもそういう狂気って色んなところにある、そんな風に自分は思うんですよね。


そして読んでいてつくづく思ったのは、ダイアリで瑣末ながらザムドに関して文章を書いてきて良かったな、この作品が好きで良かったな、ということです。
自分がこうじゃないかああじゃないかと「考えて」いたことにヒントなり答えなりが与えれている喜び。さながら、自分がしたためた手紙の返事を受け取っているかのような気分でした。自分の感情を叫ぶことが出来る一つの出会いが確かに私にはあったのですから。
本当に幸せな時間を過ごすことが出来ました。その点ではまず感謝の念が絶えません。



願わくばこの感情が「あなた」に届きますように。

*1:『敵について』が本来は夫婦ゲンカの詩であるということをああいう形で種明かししているといのは、感動しました