亡念のザムド各話を勝手に解説していくシリーズ 第26話(最終話)
配信にて全話視聴済みのrivfiがネタバレにならない程度に、テレビ放映された回の分かりにくいところ、今後に備えてちょっと大事なところなどを書いていくコーナーです。あくまで私の勝手な解釈なので間違ってたらごめんなさい。
配信にてとかいつだよ!?ってな位に時は経った!!
今回はいつにもまして作中で何が起こったか、どういう意味なのか説明がありません。最後なのに。ぶっちゃけ書きようがない、にしても間空きすぎでござる
ですので、今回のエントリで述べているのはいつにもまして私の解釈です。妄言です。
だから、むしろ、他にあるはずの別の解釈がどういうものなのか聞いてみたい。
というか本来、この解説はせっかくの作品の味「考えろ」を台無しにしてしまうようなものなんですが、それよりも亡念のザムドを他の人がどんな風に受け止めたかというのを知りたかったというのがこれらのエントリを書いてた動機になるんだと思います。
だからぜひぜひディスってください。ていうかそもそも公式ガイドブック出てんのになに言ってんだ。
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その当のガイドブックでの説明と私の書いてきたことで違うところが多々あったりするんですが、逆にガイドブックでスルーされてることについて私が書いてたりもするのでそこはそれぞれが「考えた」結果ということで。みんな違ってくそくらえ。
それに公式ガイドの意味ないって言っても、宮地監督が書き下ろすの小説版もわざわざ“新約”って付けてるくらいだし、それとは違った解釈になってるだろうから、と開き直る。
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なんとか小説版読む前に書けました。
というわけでネタバレというよりも、超長文なので以下折りたたみ。
〜色々と解説〜
1.アキユキと皇帝はどうなったの?
これは意外と簡単です。25話解説でも述べた通り、元々ヒルケンは既に死んでいたのに無理やりヒルコを植えつけられ、生き長らえさせられている存在です。
名もなく、“ヒルケン”という役職だけ与えられている彼はその嘆きがために世界を闇に包むわけですが、アキユキ自身も石化を経験したり、我を失っている経験の持ち主です。
他者からの認証、名前を呼ばれることが必要であったという意味で「私が、お前の中のもう一つのお前だからだ」なわけです。
名を譲渡された“ヒルケン”は、その嘆きの元がなくなりました。そして……
一方“アキユキ”は一連の街のシーンでのモノローグの通りですね。「僕がこの町を知らないんじゃない。この町が僕を知らないんだ。」呼んでもらえる名前はあげてしまったんだから、それは当然です。
もっと言うとアキユキが子供の姿であることの理由は、13話のフサの回想からあの年代にアキユキは「私の息子だ」という個人としての認証を得られているからですね。
2.それじゃあなんでナキアミはアキユキの名前を呼んであげないの?ナキアミはどうしたの?
いなくなるからです。その場でだけ呼んであげてもアキユキは我を取り戻すことは出来ません。
自分自身でしっかり自らを確立出来るまで、どのみち石に戻ってしまうからです。君の名前を呼び続ける誰かが必要なんですね。
ナキアミ自身は太母のヒルコとともに天に昇り、“ヒルケン”の時間を巻き戻しました。(受精卵の逆再生)
こうすることで今までの“ヒルケン”を消滅させてきた大巡礼とは異なり、“ヒルケン”もルイコンの流れに還すことが出来ます。
何度も書いてきたようにナキアミは「母」の役割を持っています。そういう意味でヒルケンをナキアミは生まれさせてあげる役割を果たすんですね。*1
仮面を被ったアキユキが反応したのも、母にぐずる赤ん坊、または名がないことでヒルケンと同じくルイコンの流れに還りたがっている(でも還すわけにはいかない)という風に解釈できるかもしれません。
ここで天心さまの言葉を深読みすると、また1000年後に通常なら再び大巡礼が必要になる時が来るのですが、今度は「豊穣の笑みをかおる時」が来るかもしれないんですよね。
その時はナキアミが言う「それが穢れた魂たちであろうと、皆とこの大地で生きていける」大巡礼が不要な世界になっているかもしれないということです。1000年経ったら答えは分かる。
3.なんで宛書不明便をばら撒いたの?
宛先不明便*2も届くからです。“ヒルケン”が“アキユキ”という名をもらって認証が可能になったように、相手を呼び、思い、魂込めて書いてあれば届くし、もしかしたら“ヒルケン”に宛てられていた想いも名前を得られたことで届いたかもしれない。少なくとも言葉が心に足りなかったとしても、届かないことはない。
でも届いたとしても銃を撃ち続けていた北政府の兵士の様にそれが通じないこともある。
そういう意味であのシーンはとても正しいものだと思います。
4.最後のアキユキとハルのシーンは……?
これは↓のチェックポイントのところで詳しく説明しています。
私が考えた結果がこの内容です。この解釈の正誤はともかく、少なくとも『亡念のザムド』はとてつもないメッセージ性を持っている作品ということに間違いはないと思います。
〜チェックポイント〜
そもそも、この第26話、最終回に該当する内容の尺が普段の半分しかないのではないかと私は考えています。
そうです、Aパート終わりにかかった「Vacancy」はいつも通りエンディングテーマなのです。*3つまり26話前半、アイキャッチまでは25話Cパート、アイキャッチ以降からやっと最終話である26話の内容に入るわけです。どちらかというとアイキャッチまでは大巡礼顛末という感じですからね。
で、その解釈で行くとタイトルの『大きな石と少女』の内容は後半のBパートだけということになります。
でもそこは亡念のザムド。ただ一つの答えなんか用意されていませんよ。
石…アキユキ 少女…ハル
石…キーオ母 少女…キーオ
石…胎動窟内のナキアミ 少女…伊舟
石…胎動窟 少女…ナキアミ
ハル、や伊舟は大人じゃないかとかいうツッコミはなしですよ。この作品のキャラクターに単純に一つの記号が付与されているわけではないというのは今まで見てきた通りじゃないですか。*4
上に上げたのはいずれも大きな石に何らかの願いを込める少女たちですが、その願い、気持ちを相手に伝えようとする、手紙を一つのキーアイテムとして置いてきたこの作品としては、これほどふさわしいラストはないのではないでしょうか。
そういった視点でもう一度ラスト一連のシーンを見てみましょう。
解説のところでも書いたように伝え方は様々でも想いは届きます。
アクシバはそのまま手紙を書き、キーオは母に触れ父からリンゴを受け取り*5、伊舟は言葉はいつも心に足りなくともそれでもナキアミに呼び掛ける。
たとえ相手が考えないかもしれない石だとしても想いを「伝える」、そのことが重要だと。
そうしてアキユキは帰ってきます。
彼の手が映るシーンが実写になるのは、彼が本当にアキユキとして帰ってきたということの表れでもあるんでしょう。
また公式サイト内での宮地監督のインタビューにあるような現実への拘泥、アキユキ達の現実と同じように私たち視聴者にも当然現実があるんだよ、という意味があるのだと思います。
そういう意味でアキユキはハルの元に帰ってきたし、作品が終わって視聴者である私たちも現実に帰って行かないといけない、そういう強いラストです。
他にもちょっとしたポイントをいくつか。
笹村のおばあちゃんは道行く人に片っ端からコミュニケーションという意味のミカンを投げまくってるんですかね。おかげでフサが来るころにはカバンがからっぽに。そしてフサはリュウゾウのミカンをキャッチするようになりました。
シロザの描いている絵ですがサントラにあるイラストではこの絵の傍に立っている伊舟の姿があります。
スカッキが読んでる本がすごいハーレクインに見える。
龍人文明ってなんぞや。読みようによってはエウレカ世界とか下手すればナウシカ世界でもいけるぞ。(さすがに妄想すぎる)
『亡念のザムド』は自分にとって本当に素晴らしい作品です。この作品を見る中でどのように「考えて」様々な作品に触れていくか、消化していくか、そういうことを意識させてくれたのはこの作品です。
その意味で大変ラグはありますが、ありがとうございますという風に述べたい。
さて、大変長い期間がかかってしまいましたが、この言葉で勝手に解説していくシリーズを終えたいと思います。個人的にはこの言葉を投げかけられている男性キャラクターは宮地監督自身じゃないかという気もするのですが、そうでなくても本当にこの言葉はここを締めくくるにふさわしい。さて小説版を読みますか。
「だから男は馬鹿なのよ。」
25話分はこちら↓