ペニンシュラ型

~私とあなたの不可避な壁~

呪いをかけるのに大袈裟な道具などは必要ないのだけれどこんなレプリカはいらないのだけれど


久々に何か書いたのでついでにちょっと書き散らしておくと、
本当に俺がいるのあの呪いは素晴らしかった、今期位置の呪術系アニメです
反応見ると結構みんなあれを呪いと認識していて呪い実在論者としては嬉しい限りです


あと俺がいるというと、自分は世の中にはネタバレを知っていると楽しめる作品もあると信じているのですが、俺がいるはそのパターンでしてガンガンネタバレ踏みに行ってるのですが、どうしてあんなことになるのかすごい楽しみです。
こっちの地域だと今日深夜最終回放送です

アニメ血界戦線最終話延期に寄せて 松本監督と尺のこと

めっちゃ楽しみにしてた血界戦線最終話が放送延期だそうです。
番組編成の都合で放送延期と聞いてぐぬぬっていたけど、更に待つことになるとのことで正直しんどいです。


でもね、松本理恵監督作品をある程度追ってきたような感じがする自分としてはですね、別の感慨もあるわけです。
公式サイトの文面を丸ごと信用するか、という意見もあるでしょう、自分は信用します。
四年前、松本理恵監督の初オリジナル監督作品となった『京騒戯画』第一弾、そのお披露目の場となった上映会の会場で彼女が言った一言が忘れられないからです。


「やっぱ尺が足んねぇな」


決められた枠の中に作品を収めることも当然、プロの仕事ではあるでしょう、ただ何かを表現することにおいてそれをある枠の中に抑え込んでしまってしまうのはとてももったいないことでもあると思うのです。
事実、『京騒戯画』は実際に尺が足りませんでした。細かい設定変更の残滓の様なものも見受けられますが、その後ノテレビシリーズで描かれた物語のエッセンスのほとんどがあの25分のPV、あるいは初報の5分PVに詰まっていました。
あの尺が足んねえな、は本当に監督の中で拘泥するところがあったのでしょう、キャストやお偉いさんもみんなよく分かんないけど、すごいという様な事ばかり言っていました。一つ一つのカットに意味は確かにあるけれども、意味がありそうなことは伝わるけれども、それがなんなのかをしっかりと示す時間はない。
実際、あの25分で示された物語の、ひとまずの全容を描くのには1クールの枠が必要となりました。


監督が尺が足んねえな、と思っていた作品があって、ここにその作品をもっと見たいな、と思った視聴者がいて、監督の実力やらなにやらがかみあって、尺が得られた。最終的に物語の幕をしっかり閉じる、最後まで見届けることが出来る、機会が得られた。これはとてもすごいことです、幸運なことです。


そんな監督が、今度は監督自身も大ファンなマンガ作品のアニメをてがけることとなりました。キャストなんかもオーディションなしで監督のイメージで決めた、という話も色んなインタビューなどで度々出てきます。
めっちゃ力が入ります。原作の魅力、各スタッフの手腕、準備に許された時間、これまた色んなものが噛み合って大人気と言える作品になりました。


私もめっちゃ楽しんで見ました。一目で監督のものと分かるカット割り、キャラデザついてるはずなのにコトの笑顔にしか見えないホワイトの笑顔、松本の理恵ちゃん釘宮の理恵ちゃん好きすぎる*1、松本監督家族の絆とかそう言うの好きすぎる、とかとか。
11話なんか、すごいな、と思いましたよ。このご時世、人気原作物にオリジナルぶっこむってことがまず冒険ですよ。それが分かってるのに、あの構成にするってのは、なんというか視聴者を信じていないと出来ないと自分は思いますもの。こちらを信じてくれている、と自分は視聴後思いましたもの。
11話だけで引っ張ってきても、あの内藤キャラにしか見えない両親であるとか、トライガンネタじゃねーかこの双子!であるとか、このアニメは視聴者に対する「あなたたち、内藤作品が好きでしょう?そうでしょう、僕も大好きだ!」「ホワイトちゃん、かわいいでしょう?私もそう思う!」という気持ちがあふれ出ていた作品だった様に思うのです。
そんな内藤作品(あるいはそのテイスト)が好きだったり、ホワイトちゃんかわいいと思っていてくれてたりする人は絶対にこのラスト一話前をやったなら、ついてきてくれる、そういう自信や視聴者への信頼をフルにフックとして使った30分だったと思うのです。


さて、そんな風に視聴者を信じ、自分たちの作っている作品を信じ、という状況で作っているものです、どうにかあの「トータスナイト」にまで歩を繋げたい中でつくっているものです、またあの壁が立ちふさがってきたわけです。
でもね、今度は自分たちがやってきたことでついた人気や運や巡り合わせで、作品をお出しした後であの一言を言う、という辛い経験をしなくてもよくなったのです。
今度はお出しする前に、「やっぱり、尺が足りない!」と言える様になったわけです。その一言が受け入れられる状況ができたわけです。
それが商品である映像作品を出す者として本当に良いことなのかは分かりません。
でも、よしじゃあ待ってやろう、お前のベストが見たいんだ、信じてくれたんだから信じてやろうって視聴者が少なくともここにいます。

*1:件の京騒発表会でも釘宮さんのことべた褒めしてた

松本理恵好きとしては当然追っています


今日OPのフラゲ日だったりしました


流石ガラス玉一つ落とされただの、一つの陽だまりに二つはちょっと入れないとか歌ってただけあって完全にトータスナイトですよこの曲(原作10巻読んでね)

ところでなにあのホワイトちゃんの理恵ちゃん顔!!内藤デザインに違いないし内藤キャラのスマイルだけど完全にコトの笑顔ですよあれ
理恵ちゃん監督(釘宮の)理恵ちゃん好きすぎる
んで、いろんなところで松本監督が原作ファンという話はされてるんですが、レオの妹ミシェーラのOPED、回想シーンの扱い、三話予告で声だけ先に登場ホワイトの兄(これも釘宮ボイス)ときたら完全にこれ兄妹ネタやるつもりですよ!
兄弟というか家族ネタは京騒戯画しかり、劇場版ハートキャッチプリキュア!花の都でファッションショー…ですか!?しかり松本監督の大好きなテーマですよ、大好きな監督が大好きな原作で大好きなテーマを使うんですよ、めっちゃ楽しいですよ


画面なり間なりが松本監督節炸裂で見てるだけでニヤニヤするのはひっさびさです

というわけでちまちま何か書きたいです

放置しすぎてたのでリハビリがてらついったに書けば良さそうなものとかも書いとこうかなとおもいます
血界戦線といえばEDめっちゃいいですねキャラ良し曲良し理恵ちゃん監督リズム
リズムに乗るで全然リズム無視なのが好きです


OPEDというとやはり俺の以下略まちがっているのOPも好みです、境界線みたいなのを画面に用意してくれるのがすごい好きです、安易ですが
最後のヒッキーの足元に線が引かれていれば満点と言っても良いとか思ってたら、何かOP変わったとか耳に挟んだので(まだ未見)最終的にそうなってくれればいいなと思います
一期の吉村監督の画面作りが好きだったんですが、二期も良いですね、一本道でどうあるくかどっちに向かうか止まるか追い抜くか、とかテーマ的には自分の好きな演出が映えるシーンが多くて楽しい作品です


こういうここが良いなぁと思ったことを刹那的についったに書くのもそれはそれでいいんだけどやっぱりログというか見返しにくいのでどうでも良い形でも書いといた方がいいなぁと
なまじボリューム重いのを書いてた時期があったんで自分の中でハードル上げてた感じがあったんだけどよく考えなくてもそんなハードル意味ないので

バクというキャラクターから見る『キャプテン・アース』の行き先について〜『STAR DRIVER 輝きのタクト』におけるホンダ・ジョージとはなんだったのか


キャプテン・アース』が面白いです。
ロボ戦が少ないという意見もあるようですが、しょせんロボアニメのロボットは舞台装置なんや!大事なのはキャラクターや!!という視点で見ると非常に良く出来てると思います。
同じスタッフの前作、『STAR DRIVER』が水戸黄門暴れん坊将軍の様な一話完結型の話が多かったのに対して、より長編的な話の描き方をしているのはある種の挑戦と捉えることも出来るでしょう。

キャプテン・アーススタードライバー

そう、『キャプテン・アース』を見ているとどうしても『スタドラ』が頭に浮かんでしまう。いくらスタッフの大部分が重なってしまっているとはいえ、スタドラとキャプテンアースは別の作品です。
今現在の作品に対して過去の作品の影ばかりを追ってしまうのは良くないとは思っているのですが、それにしたってとうとうキャプテン〜がスタドラの直系であることを(少なくとも私は)意識せざるを得ないキャラクターが登場してしまいました。
そのキャラクターこそが遊星歯車装置最後の一人にして、人間としての生活を最も忘れられない少年、バク=バグベアーです。
このキャラクターのどこにスタドラの系譜が感じられるのでしょうか。


『STAR DRIVER 輝きのタクト』という作品も、上で書いたように少なからずロボットは単なる舞台装置であり、彼らの戦いを描きつつも、その骨子はタクトたちの青春にあったように思います。自分自身の心に従って生きる彼らの姿は輝いており、そんな彼らだからこそ、何が起こっても絶対大丈夫であり、そして三人で見た光り輝く素晴らしい景色を見たけれど、きっとそれ以上の景色を彼らは見るだろう、見せてくれるだろう、というのを視聴者に信じさせてくれるお話だったと私は考えています。
その『スタドラ』の物語に私たちが入っていくために、多大なる貢献をしたキャラクターがいました。
我々にとって『スタドラ』の物語はどこから始まったのか、その答えはこれでしょう

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喰らえ この愛 これぞ愛 『京騒戯画』十話

ひっじょーーーに綺麗に終わったと思います。
ちょいちょい深読みできる部分もあるかと思いますが、サブタイ通り『今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画』になったと思います。まぁだからこそ、個人的には気になることがあったりするのですが。


最終回名物特殊アバンタイトルでありますが、第1話のアバンと対になっているところがとても好きです。1話では稲荷による語りかけ、鏡の都あるいはこのお話自体がどういうものなのかということが提示されて、これから話が広がっていくことを暗示するがごとくカメラが空に広がっていく。今考えてみるとカメラが宇宙に向かっていくのは平行宇宙にまで話が広がっていくのを示唆していたのでしょうか。
対して、今回の冒頭はその広がった世界から家族あるいはその愛に焦点があるというのを示さんばかりに世界から下って来て稲荷とコトの語らいにカメラが移る。秘密の都の話をしていたのが稲荷とコトの秘密になっているのも面白い。そもそも鏡都自体が彼らの秘密でもあるわけですからね。


というわけでそもそもこのお話自体が稲荷がアイデンティティを見つけるまでの物語と言っても良いのでしょうが、彼が語る自身の存在意義の謎は薬師丸の抱える自分は何なのか、という問題と重なるわけですね。彼らは特殊すぎるケースですけど、この問題自身は割と普遍的なものですよね。彼も特殊なケースですが、宮司のボヤキも同様の意味を持っていてそれに対する回答というのもおんなじなんですね、意外とどこにも転がっている。
自身の存在意義とは何か、いるだけでよい、愛で意味が付いてくるしそれがまた愛になるっていうのは、すっごい普遍的ででっかいお話だからこそ刺さる人には刺さる物語になったのだと思います。
それだけじゃなくて家族の物語として子供たちの成長というのが見られた最終回だったかなぁ、と思います。古都は薬師丸が数珠を使うにはまだ、と思っていたけれど逡巡しつつもそこはさらっと乗り越えますし、稲荷のコトと薬師丸が世界を作り変えることは信じているけれど、自分の存在を残すという点では想像を超えていってる。知らぬところで子供は育つわけですね、日頃の何気ない愛で。「お前は分かっているのか」という稲荷へのコトの問いかけに対する彼女の答え、拳はコトの幼少時に稲荷自身が教え、褒めてきたものでもあります。
そういう意味で普段のEDの締めの画面の何気ないコトと明恵たちの生活の一場面というのは、それをチラ見せしようとしていたのでしょうか。


コトなんかは主人公、ヒーローだけあってそこの創造を超えていくところがとても強くて、あれだけ古都が稲荷を愛し、理解し、だからこそ理解できず越えられなかった垣根を(作画的にも、意味的にお)いとも簡単に越えていく。
娘のよびかけに父親ですもの、笑顔で答えたくなるのはそりゃ当然です。
予習編0話で稲荷が切っていたのは朝顔でしたが、今回ずっと画面に出てきた朝顔の垣根をぶっ壊したのはコトでした。でも垣根はぶっ壊しても朝顔は咲いています。朝顔花言葉は愛だそうです。


世界は「騒がしく戯れ生き」られる様に、そううまくいくような形をしている。また稲荷自身、またあの家族にとってそう出来るような家がやっとできた、むしろこれからそのように生きていけるようになった、そんな最終回だったと思います。
一方、途中のコトと明恵がワープする時の「なんだこりゃ」「ワケわかんねぇ」空間は、おそらく方々で言われてると思いますがすっごいメタ的な意味も含んでいると思います。明恵への語りかけは何度も終わり、コンティニューし、つづけられてきたこの『京騒戯画』という作品自体への意味も含まれているのだと思います。
ここで仕切り直しできると言って画面を砕いちゃうっていうのは、後半戦のOPで不吉に思えていた三兄弟の回想シーンのひび割れのネガティブな印象がひっくり返されるすっごい大胆なネタも含んでるんじゃないでしょうか。
評価は分かれるところだと思いますが、作りだした物語に対して、一緒にいても良い、ずっと一緒にいてくれっていうのは意外とすっごく難しくて覚悟のいることだと思うのですが、それをやっちゃうところもすごく良かったです。今後の展開としてどうなるかというのは非常に気になる所でもありますし。


最終話だけでなく『京騒戯画』全体に対する総評になってしまうのですが、今回のTVシリーズを通してやったのは「今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画」がこれからはじまるよ、できるようにするよ、という部分だったと思います。
ただ、最初の予習編0話の際のパンフレットや各種インタビューで松本監督がおっしゃっていた『京騒戯画』の意味、「鏡(の都)を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画」から非常に細かいところでずれてしまった様な気がするのが個人的にはちょっと物足りない様な残念な様な気もするのも事実です。
鏡都での家族の生活を描く、というよりも騒がしく戯れられていられるのはなぜか、というところの説明に力点を置いたというのは分かります、そういう説明はあんまり必要でないとする自分の様な意見の人間は少ないというのも分かります、でもそこも自分はもう少し、見たかった。以前のエントリで書いていたように自分は「おまつり」感を今作に期待していた部分も大きかったので、0話で見られたようなどんちゃん騒ぎはどうしても、説明をやっていくと省かざるを得ない部分なので。わがままですが。


それでも、それ以上にこの作品には良いところが多かった。
細かい演出や画面全体の雰囲気、役者の演技、何よりこうやってひっさびさに自分に毎週何か珍文を書かせるだけのエネルギーがありました。
何度も引き合いに出しますが、松本監督の前作『花の都でファッションショー…ですか!?』でも描かれた愛や家族、アイデンティティについてより大きな尺で描いてくれました。「Au revoir」な作品になってほしいと『京騒戯画』が始まったころに書きましたが、その通り、次にまた会うのが楽しみになる作品が出来上がったと思います。
少なくとも、自分にとって何かあるたびに見返そうと思える作品です、時々ね。


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連れてこねばならぬということはその人だけでは出来ぬということ 『京騒戯画』9話

前回説明回と書いていたらもっと露骨な説明が来たでござる。
ここまで潔いのは珍しいというか大胆でびっくりしました。
再生のための破壊が必要とはおもってましたが、これまでに出てきてたことじゃなくて本格的なそれがここだとは思わなかった。
というか稲荷がガチ神様であったのであった。そりゃ考えるスパンも違うし言わなくても分かんだろ、になる。それにしても「後で説明する」と古都に言うようになってるのは成長?学習?してるといっても良いのでしょうか。


にしたって稲荷の話が通じない様に見えるのは意図的ですね、明恵との間に地面に亀裂が入ってるのなんかすっごい分かりやすい。
というか今回画面自体の動きはそんなに大きくない割にそういう演出がキレッキレッでした。
あの長回し稲荷語りパートも地味に凝ってます。宮司と共に活動していたところまでは宮司の位置に近付いて行って、まだ神社での活動中は神社所属のねこ達辺りの位置にいるんですが、そこからだんだん宮司から離れていって、稲荷の関心が別のところに向きだしたところで、一般的な神社のアイコンである鳥居から彼が出ていくように見える。その後、御神刀でコトに介入する際にも鳥居の向こう側に突き飛ばしているという形。
ここまで見てると稲荷が好き勝手やってるだけに見えますが、あくまで今回のタイトルは「どうしたらいいかみんなで考えよう」、みんなで考えようなんですね。神たる稲荷が自身で世界を作り変えるのではなく、自分でない誰かの力が必要だと。
ただやっぱり説明しないし、価値観が違うし、結果どうなるか判断できないから視聴者もキャラクターも混乱するという。


その一番の被害者たるのが明恵こと薬師丸ですね。さんざんな目に遭ってます。「使ってないのか」の発言なんか完全に「言わなくてもわかんだろ」の結果です。でも彼には資格があった。八瀬の言うように自身のことを軽く思っても他者のことを軽く扱わなかった。
鞍馬たちと一緒に地面の下?に埋まってる時なんか、背中に岩盤があって後ろには戻れない、過去に胡坐をかいてること(それまで謎円盤にずっと座ってた鞍馬が自分で立ってるのも印象的ですね)が露骨に描かれてるんですが、その分鞍馬の先にある光は明るい。
鞍馬と八瀬が「あるべき様に」振る舞ったから、ゆりかごのような三人議会から卒業するのが遅くなってしまった面もあるかもしれませんが、「あるべき様に」振る舞わなければ薬師丸の元服もあり得なかった。
八瀬も何故記憶が残ったかというと、ものに依拠する過去のことではなく明恵という今の存在に意識が向いたからではないのかな、と思います。
そこから着せられていたマフラーを捨ててちち離れを果たして、あるべき様に自分のなすべきことをなす、すっごい綺麗な流れだと思います。


そして次で最終回。毎度更新する時間が遅くなりましたが、どうにか全話何か書けそうです。