ペニンシュラ型

~私とあなたの不可避な壁~

松本理恵好きとしては当然追っています


今日OPのフラゲ日だったりしました


流石ガラス玉一つ落とされただの、一つの陽だまりに二つはちょっと入れないとか歌ってただけあって完全にトータスナイトですよこの曲(原作10巻読んでね)

ところでなにあのホワイトちゃんの理恵ちゃん顔!!内藤デザインに違いないし内藤キャラのスマイルだけど完全にコトの笑顔ですよあれ
理恵ちゃん監督(釘宮の)理恵ちゃん好きすぎる
んで、いろんなところで松本監督が原作ファンという話はされてるんですが、レオの妹ミシェーラのOPED、回想シーンの扱い、三話予告で声だけ先に登場ホワイトの兄(これも釘宮ボイス)ときたら完全にこれ兄妹ネタやるつもりですよ!
兄弟というか家族ネタは京騒戯画しかり、劇場版ハートキャッチプリキュア!花の都でファッションショー…ですか!?しかり松本監督の大好きなテーマですよ、大好きな監督が大好きな原作で大好きなテーマを使うんですよ、めっちゃ楽しいですよ


画面なり間なりが松本監督節炸裂で見てるだけでニヤニヤするのはひっさびさです

というわけでちまちま何か書きたいです

放置しすぎてたのでリハビリがてらついったに書けば良さそうなものとかも書いとこうかなとおもいます
血界戦線といえばEDめっちゃいいですねキャラ良し曲良し理恵ちゃん監督リズム
リズムに乗るで全然リズム無視なのが好きです


OPEDというとやはり俺の以下略まちがっているのOPも好みです、境界線みたいなのを画面に用意してくれるのがすごい好きです、安易ですが
最後のヒッキーの足元に線が引かれていれば満点と言っても良いとか思ってたら、何かOP変わったとか耳に挟んだので(まだ未見)最終的にそうなってくれればいいなと思います
一期の吉村監督の画面作りが好きだったんですが、二期も良いですね、一本道でどうあるくかどっちに向かうか止まるか追い抜くか、とかテーマ的には自分の好きな演出が映えるシーンが多くて楽しい作品です


こういうここが良いなぁと思ったことを刹那的についったに書くのもそれはそれでいいんだけどやっぱりログというか見返しにくいのでどうでも良い形でも書いといた方がいいなぁと
なまじボリューム重いのを書いてた時期があったんで自分の中でハードル上げてた感じがあったんだけどよく考えなくてもそんなハードル意味ないので

バクというキャラクターから見る『キャプテン・アース』の行き先について〜『STAR DRIVER 輝きのタクト』におけるホンダ・ジョージとはなんだったのか


キャプテン・アース』が面白いです。
ロボ戦が少ないという意見もあるようですが、しょせんロボアニメのロボットは舞台装置なんや!大事なのはキャラクターや!!という視点で見ると非常に良く出来てると思います。
同じスタッフの前作、『STAR DRIVER』が水戸黄門暴れん坊将軍の様な一話完結型の話が多かったのに対して、より長編的な話の描き方をしているのはある種の挑戦と捉えることも出来るでしょう。

キャプテン・アーススタードライバー

そう、『キャプテン・アース』を見ているとどうしても『スタドラ』が頭に浮かんでしまう。いくらスタッフの大部分が重なってしまっているとはいえ、スタドラとキャプテンアースは別の作品です。
今現在の作品に対して過去の作品の影ばかりを追ってしまうのは良くないとは思っているのですが、それにしたってとうとうキャプテン〜がスタドラの直系であることを(少なくとも私は)意識せざるを得ないキャラクターが登場してしまいました。
そのキャラクターこそが遊星歯車装置最後の一人にして、人間としての生活を最も忘れられない少年、バク=バグベアーです。
このキャラクターのどこにスタドラの系譜が感じられるのでしょうか。


『STAR DRIVER 輝きのタクト』という作品も、上で書いたように少なからずロボットは単なる舞台装置であり、彼らの戦いを描きつつも、その骨子はタクトたちの青春にあったように思います。自分自身の心に従って生きる彼らの姿は輝いており、そんな彼らだからこそ、何が起こっても絶対大丈夫であり、そして三人で見た光り輝く素晴らしい景色を見たけれど、きっとそれ以上の景色を彼らは見るだろう、見せてくれるだろう、というのを視聴者に信じさせてくれるお話だったと私は考えています。
その『スタドラ』の物語に私たちが入っていくために、多大なる貢献をしたキャラクターがいました。
我々にとって『スタドラ』の物語はどこから始まったのか、その答えはこれでしょう

続きを読む

喰らえ この愛 これぞ愛 『京騒戯画』十話

ひっじょーーーに綺麗に終わったと思います。
ちょいちょい深読みできる部分もあるかと思いますが、サブタイ通り『今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画』になったと思います。まぁだからこそ、個人的には気になることがあったりするのですが。


最終回名物特殊アバンタイトルでありますが、第1話のアバンと対になっているところがとても好きです。1話では稲荷による語りかけ、鏡の都あるいはこのお話自体がどういうものなのかということが提示されて、これから話が広がっていくことを暗示するがごとくカメラが空に広がっていく。今考えてみるとカメラが宇宙に向かっていくのは平行宇宙にまで話が広がっていくのを示唆していたのでしょうか。
対して、今回の冒頭はその広がった世界から家族あるいはその愛に焦点があるというのを示さんばかりに世界から下って来て稲荷とコトの語らいにカメラが移る。秘密の都の話をしていたのが稲荷とコトの秘密になっているのも面白い。そもそも鏡都自体が彼らの秘密でもあるわけですからね。


というわけでそもそもこのお話自体が稲荷がアイデンティティを見つけるまでの物語と言っても良いのでしょうが、彼が語る自身の存在意義の謎は薬師丸の抱える自分は何なのか、という問題と重なるわけですね。彼らは特殊すぎるケースですけど、この問題自身は割と普遍的なものですよね。彼も特殊なケースですが、宮司のボヤキも同様の意味を持っていてそれに対する回答というのもおんなじなんですね、意外とどこにも転がっている。
自身の存在意義とは何か、いるだけでよい、愛で意味が付いてくるしそれがまた愛になるっていうのは、すっごい普遍的ででっかいお話だからこそ刺さる人には刺さる物語になったのだと思います。
それだけじゃなくて家族の物語として子供たちの成長というのが見られた最終回だったかなぁ、と思います。古都は薬師丸が数珠を使うにはまだ、と思っていたけれど逡巡しつつもそこはさらっと乗り越えますし、稲荷のコトと薬師丸が世界を作り変えることは信じているけれど、自分の存在を残すという点では想像を超えていってる。知らぬところで子供は育つわけですね、日頃の何気ない愛で。「お前は分かっているのか」という稲荷へのコトの問いかけに対する彼女の答え、拳はコトの幼少時に稲荷自身が教え、褒めてきたものでもあります。
そういう意味で普段のEDの締めの画面の何気ないコトと明恵たちの生活の一場面というのは、それをチラ見せしようとしていたのでしょうか。


コトなんかは主人公、ヒーローだけあってそこの創造を超えていくところがとても強くて、あれだけ古都が稲荷を愛し、理解し、だからこそ理解できず越えられなかった垣根を(作画的にも、意味的にお)いとも簡単に越えていく。
娘のよびかけに父親ですもの、笑顔で答えたくなるのはそりゃ当然です。
予習編0話で稲荷が切っていたのは朝顔でしたが、今回ずっと画面に出てきた朝顔の垣根をぶっ壊したのはコトでした。でも垣根はぶっ壊しても朝顔は咲いています。朝顔花言葉は愛だそうです。


世界は「騒がしく戯れ生き」られる様に、そううまくいくような形をしている。また稲荷自身、またあの家族にとってそう出来るような家がやっとできた、むしろこれからそのように生きていけるようになった、そんな最終回だったと思います。
一方、途中のコトと明恵がワープする時の「なんだこりゃ」「ワケわかんねぇ」空間は、おそらく方々で言われてると思いますがすっごいメタ的な意味も含んでいると思います。明恵への語りかけは何度も終わり、コンティニューし、つづけられてきたこの『京騒戯画』という作品自体への意味も含まれているのだと思います。
ここで仕切り直しできると言って画面を砕いちゃうっていうのは、後半戦のOPで不吉に思えていた三兄弟の回想シーンのひび割れのネガティブな印象がひっくり返されるすっごい大胆なネタも含んでるんじゃないでしょうか。
評価は分かれるところだと思いますが、作りだした物語に対して、一緒にいても良い、ずっと一緒にいてくれっていうのは意外とすっごく難しくて覚悟のいることだと思うのですが、それをやっちゃうところもすごく良かったです。今後の展開としてどうなるかというのは非常に気になる所でもありますし。


最終話だけでなく『京騒戯画』全体に対する総評になってしまうのですが、今回のTVシリーズを通してやったのは「今日を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画」がこれからはじまるよ、できるようにするよ、という部分だったと思います。
ただ、最初の予習編0話の際のパンフレットや各種インタビューで松本監督がおっしゃっていた『京騒戯画』の意味、「鏡(の都)を騒がしく戯れ生きる人々の漫画映画」から非常に細かいところでずれてしまった様な気がするのが個人的にはちょっと物足りない様な残念な様な気もするのも事実です。
鏡都での家族の生活を描く、というよりも騒がしく戯れられていられるのはなぜか、というところの説明に力点を置いたというのは分かります、そういう説明はあんまり必要でないとする自分の様な意見の人間は少ないというのも分かります、でもそこも自分はもう少し、見たかった。以前のエントリで書いていたように自分は「おまつり」感を今作に期待していた部分も大きかったので、0話で見られたようなどんちゃん騒ぎはどうしても、説明をやっていくと省かざるを得ない部分なので。わがままですが。


それでも、それ以上にこの作品には良いところが多かった。
細かい演出や画面全体の雰囲気、役者の演技、何よりこうやってひっさびさに自分に毎週何か珍文を書かせるだけのエネルギーがありました。
何度も引き合いに出しますが、松本監督の前作『花の都でファッションショー…ですか!?』でも描かれた愛や家族、アイデンティティについてより大きな尺で描いてくれました。「Au revoir」な作品になってほしいと『京騒戯画』が始まったころに書きましたが、その通り、次にまた会うのが楽しみになる作品が出来上がったと思います。
少なくとも、自分にとって何かあるたびに見返そうと思える作品です、時々ね。


京騒戯画 伍巻(VOL.5)<完> [Blu-ray]
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) (2014-05-09)
売り上げランキング: 1,585

連れてこねばならぬということはその人だけでは出来ぬということ 『京騒戯画』9話

前回説明回と書いていたらもっと露骨な説明が来たでござる。
ここまで潔いのは珍しいというか大胆でびっくりしました。
再生のための破壊が必要とはおもってましたが、これまでに出てきてたことじゃなくて本格的なそれがここだとは思わなかった。
というか稲荷がガチ神様であったのであった。そりゃ考えるスパンも違うし言わなくても分かんだろ、になる。それにしても「後で説明する」と古都に言うようになってるのは成長?学習?してるといっても良いのでしょうか。


にしたって稲荷の話が通じない様に見えるのは意図的ですね、明恵との間に地面に亀裂が入ってるのなんかすっごい分かりやすい。
というか今回画面自体の動きはそんなに大きくない割にそういう演出がキレッキレッでした。
あの長回し稲荷語りパートも地味に凝ってます。宮司と共に活動していたところまでは宮司の位置に近付いて行って、まだ神社での活動中は神社所属のねこ達辺りの位置にいるんですが、そこからだんだん宮司から離れていって、稲荷の関心が別のところに向きだしたところで、一般的な神社のアイコンである鳥居から彼が出ていくように見える。その後、御神刀でコトに介入する際にも鳥居の向こう側に突き飛ばしているという形。
ここまで見てると稲荷が好き勝手やってるだけに見えますが、あくまで今回のタイトルは「どうしたらいいかみんなで考えよう」、みんなで考えようなんですね。神たる稲荷が自身で世界を作り変えるのではなく、自分でない誰かの力が必要だと。
ただやっぱり説明しないし、価値観が違うし、結果どうなるか判断できないから視聴者もキャラクターも混乱するという。


その一番の被害者たるのが明恵こと薬師丸ですね。さんざんな目に遭ってます。「使ってないのか」の発言なんか完全に「言わなくてもわかんだろ」の結果です。でも彼には資格があった。八瀬の言うように自身のことを軽く思っても他者のことを軽く扱わなかった。
鞍馬たちと一緒に地面の下?に埋まってる時なんか、背中に岩盤があって後ろには戻れない、過去に胡坐をかいてること(それまで謎円盤にずっと座ってた鞍馬が自分で立ってるのも印象的ですね)が露骨に描かれてるんですが、その分鞍馬の先にある光は明るい。
鞍馬と八瀬が「あるべき様に」振る舞ったから、ゆりかごのような三人議会から卒業するのが遅くなってしまった面もあるかもしれませんが、「あるべき様に」振る舞わなければ薬師丸の元服もあり得なかった。
八瀬も何故記憶が残ったかというと、ものに依拠する過去のことではなく明恵という今の存在に意識が向いたからではないのかな、と思います。
そこから着せられていたマフラーを捨ててちち離れを果たして、あるべき様に自分のなすべきことをなす、すっごい綺麗な流れだと思います。


そして次で最終回。毎度更新する時間が遅くなりましたが、どうにか全話何か書けそうです。

全てを破壊し全てをつなぐ様に説得(恐喝)します 『京騒戯画』8話

サブタイの割に意外とすんなりまとまった第八話『あっちとこっちでもめる話』でした。
所謂説明回ですね。にしてはあっさり、というか直接全部が明かされるという訳ではなく、世界崩壊という問題に関してだけクローズアップされていた感じなのもこの作品らしいですね。
アバンタイトルのナレーション「人と神の境が曖昧だったころ」がかなりズバッと本編に絡んでまいりました。
今まで妖怪は出てきていましたけれど、人と妖怪の境とは言ってなかったんですねー、気付かなかった。そりゃ絵とはいえ(実際は違ったのですが)世界を新しく作ることが出来たらそれはもう神ですもんね。それほどの力を持つのであれば、介入者ではなく、観察者としての立場を強いられるのはある種当然と言えるのかもしれません。


前回少し書きましたが、やはり稲荷はそのような立場を強いられ「慣れ」てしまった部分があるんでしょうね。
とはいえ石田彰キャラありがちなもったいぶった感じで何も説明しない性格なのはそれが原因というよりも彼のもとからの人となりの様ですが。この辺りは。古都とのちょっとコメディタッチのやり取りでツッコミが入っていたのが面白かったですが。
この作品は同じ背景でキャラクターの動きや位置関係で画面をつなげることをよくやりますが、今回は特に文字通り所在なさげな稲荷の様子がよく出ていたと思います。
稲荷と古都のやりとりといえば、今回印象的なのは彼をビンタしようとする古都の手を止めて、自分で狐面を外して、改めて自分でほほを叩かせるシーンですね。
勢いでいったら当然そのまま古都が叩いてた方が強いのでしょうが笑、直後の自分で世界崩壊の責任をとることを決意するコトのセルフビンタ?喝入れ?でやはり親子であるというのがよく分かりますし、その後自分の手で狐面を壊す場面もあり、役目としての「狐面」との決別や自分自身のケジメをつけるという意図が強く伝わります。
そういう意味ではニコニコの配信でしか見れてないので過去の話数をすぐ確認できないのが悔しいのですが、今までの稲荷の会話シーンはどうだったのでしょうか。すべてではないかもしれませんが、基本的に面を付けているときは神社での役割がある時、素顔の時は稲荷あるいは明恵としての立場を出していたことが多かった様な気がします。
そもそもあの狐面は一話で宮司がつけていたものを今回台詞であったように彼が譲り受けたものの様ですね。「反省から学ばないな」との冒頭の宮司の台詞もありましたが、何か似たようなことが過去にあったのかもしれません。


今回もう一つ面白かったのが、キャラクターの記憶の欠落ですね。登場人物のほとんどが世界が崩壊しだしてもそれまで通りの人格を持っていたのに対して、八瀬や(台詞から判断して)神社の娘さんは記憶を失っている。
その違いは何か。所持品を失っているという意味ではゲーム機?リモコン?を失っているショーコもそうですが彼女に変化はないようです。そういえば伏見の姿が見えませんが元は神社所属の彼は何をしているやら。
これはモノに対する依存度、関連付けがイコール記憶になっているんじゃないかなーと私は考えました。4話で示されましたが、八瀬は記憶を紐解く手がかりとして様々な思い出の品を保存していたわけですが、これは逆にいうとそれぞれの思い出の品に記憶が残っているという風にもとれます。だからその品々がなくなっていってしまって記憶が失われてしまった。
神社の女の子の場合は、公式サイトで見れば分かるように彼女はあくまで「社の少女」という社にとっての舞台装置、オマケのようなもので、おそらく人を作ろうとして作られた存在でないような感じがします。だから社が世界とともに崩壊しだしたことをきっかけにアイデンティティが失われ、記憶が消えたのではないでしょうか。


前回書いた家族としての再生が行われる前段階としての家族どころか世界の破壊と、コトのアイデンティティのゆらぎが今回描かれたわけですが、そこからコトらしく復活して力技で宮司に迫るのは彼女らしいところですね。
ここで明恵が自分の本当の家族のことを持ち出したのはちょっと意外でした。そういう意味で言うともう一段階、明恵がコトたちの家族として加わるためにはもう一アクション必要な気がしますがこれからどうなるか。


そんなこんなで最終回が見えてまいりました。ねこの人間体の姿も出てきて、PVに登場していたけど本編で出てないのは神官みたいな二人だけになりましたが、この二人が登場することはあるのかどうか。
しかしやっぱり東映作品ですね。

お前のようなついでがいるか 『京騒戯画』7話

零巻のブルーレイが届いたので割とご機嫌です。こんにちは。
0話になった25分PVはともかく、一番最初に世に出た5分PVなんかはかなり記憶から薄れてたので改めて見れて良かったです、というか今回の古都の夢なんかはまんまそのPVラストシーンですね。
というわけで第七話『母が帰還してついでに父も帰還した』の感想みたいなものです


冒頭ナレーションの、「幾つかの星々が混在し」にしっかりお話が絡んでくるようになりました。
並行世界なら個人的嗜好としては、もはやパラレル世界になってしまった様に思われる既存の関連映像も包括するような方向に行ってほしかったりするのですが、まあおれは贅沢かな。
中央軸というだけあって、神社がその複数の星(或は世界)を管理しているということでそこで働く稲荷もその仕事に従事しており、その真似をしちゃったコトのせいで…という流れでしょうか。
そう言われてみると、今までのPVなどの既存作品の稲荷の御神刀の扱いは単純に何かを切っているわけではなくて、介入してるということだったんですね。
コトの方法(アラタマを使用したこと)がまずかったのか、方法はおかしくなかったけど、前回鞍馬が言っていたように、その対象である鏡都とアラタマが反発しあうからまずかったのかは分かりませんが崩壊の原因を作っちゃったのはコトの様。
これでコトの満面の笑みで切っちゃうんだかから趣味が悪いですね、うん


今回の見せ場はついでの父親帰還もそうなのですが、やはり古都とコト二人の絡みでしょうね。
娘の髪を梳く母親とかなんとも懐かしい表現でございます。
二話の先生とコトの「うん」のやりとりに演出としても直接話している内容にしても対応しているふたり。
要するにここで母娘の関係をしっかり確認できているのにそこから、自分が頼りにしたかった母親からまたもお願いをされてしまうのですからコトの涙も当然かもしれません。
そんなコトにまたも幼い頃の薬師丸の様にあるべきように役割を果たす様に説く稲荷。
厳しく見えるかもしれませんが個人的には、あぁ稲荷はもうそれに「慣れ」ていまっているのだろうなぁという風に見えてしまいます。


冒頭のナレーションに話がもどりますが、「ある家族の愛と再生の物語」である割に現時点で、父親が帰還していないとはいえ、なんとか一応既に家族としての体裁は既に整っている様に見えるんですね。
てっきり過去の両親との別離からの再生の意味がメインだと思っていたのですが、この様子を見るに更にもう一度再生のための「破壊」が一度入りそうな気がしてしまいます。
もう残り3話しかないかと思うとはやいなーと思いますが、手元に届いた零巻を見てるとまだまだ楽しませてくれるんだろうなという期待もいっぱいです。


京騒戯画 零巻(VOL.0) [Blu-ray]
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D) (2013-12-06)
売り上げランキング: 221


パッケージが洒落てて良いんだけどだからこそ微妙に扱いに困る笑